新メンバー、加わる

先日我が陣営に加わった新戦力についての話。

それはある日突然にやってきた。ウーム、予想外に箱がデカイ。そして重い。2022.4.7
パカ。ドキドキ…。
ほほう。
ム。
おおー。SIGMAの150-600mm F5-6.3 DG DN OS Sports 。箱だけじゃなく中身もデカい。そして重い。2.1Kgあるらしい。2022.4.7

毎月潤沢とは言えない額の小遣いの中からコツコツと貯金し続けて遂に目標額に到達、カメラ本体とレンズのどちらを新調しようか悩んだ結果、最終的に望遠レンズの方を選びました。α7Ⅲはまたしばらく先。ということで新メンバーはレンズでした。
ちなみに小遣いの額を決めているのは私であり、妻には一切責任がありません。

さて、今持っている望遠レンズは70-300mmだから、今回の150-600mmは約2倍大きく写せることになるぞ。これは楽しみだ。ということで早速室内で無駄に試してみる。

フルサイズのSONYのカメラ、α7Ⅱに35mmレンズ(SEL35F28Z)を付けて、適当な距離で撮った写真。写真中央、ソファの背もたれの上の物体は大分小さく、言われなければ何だか分からない(トトロです)。2022.4.7
同じ位置にカメラを固定し、今回買ったSIGMA150-600mm Sportsを付けて、ワイド端150mmでパシャリ。しっかりトトロだ。2022.4.7
同じくSIGMA150-600mm Sportsにて、テレ端600mm。頭に葉っぱとカエルが乗っているのも分かった。大きく撮れるのは素晴らしい。そして写りも期待以上に良い。2022.4.7

これなら今まで諦めていた遠くの野鳥(とまっているやつ)も十分狙えそうだ。飛んでいるやつは、今持っているカメラの旧式オートフォーカスではちょっと厳しい。マニュアルフォーカスの練習に励みつつ(と言っても動く被写体に対して高倍率望遠レンズを手持ちでマニュアルフォーカスで、なんてのはかなり非現実的だが)、カメラ本体購入のためにまたお金を貯めるとしよう。

最短撮影距離(ギリギリピントが合う、一番被写体に近づける距離のこと)はテレ端(600mm)で280cm。そこで合焦するとこの大きさだ。2022.4.7
ワイド端(150mm)の最短撮影距離は58cm。そこで撮ればこんな感じ。レンズフードの端から被写体までで言えば、23cmまで迫れちゃう。目一杯広げた手の親指の端〜小指の端くらいの長さだ。かなりすごい。まぁ、そこまで近づいても逃げない被写体なら、最初から望遠マクロレンズを使いますけども(笑)。


お試しは終了。よーし、では早速明日実際に外で使ってみよう。
カメラはα7Ⅱ(2014年12月発売)ではなく、若干新しい世代のα6500(2016年12月発売)にした。イメージセンサーがAPS-Cなので1.5倍の225-900mm相当となります。

翌日、高松の池へ。あ、さくらまつりの行燈が立っている。2022.4.8
桜の蕾をパチリ。開花までまだありそう。2022年の高松の池の桜の開花予想は4月17日だっけな。2022.4.8
遠くに鳥を発見。肉眼では判別不能だったが、ファインダーで覗いたらモズでした。さすが900mm相当。2022.4.8
チラチラと気にはしている。でも離れているだけあって逃げていかない。2022.4.8
次はムクドリ。飛ぶ鳥の撮影は厳しいけれど、チョコマカと歩く程度なら全く問題なし。2022.4.8
ツグミもホイさっと。2022.4.8
飛行機を撮ってみたり。2022.4.8
ドイツトウヒの松ぼっくりを何となく撮ってみたり。2022.4.8
南昌山の頭。まだ雪が見える。権現様も雪をかぶっているのだろうか。という風に拡張した視覚能力に合わせてまた別の想像にふけったり感動を味わったりできるのも、レンズチェンジの醍醐味だ。人は景色の見え方で考え方も変わる。2022.4.8
岩手山の頭。この大きさで鷲の形を見たら、どんなことを考えるのだろうか。2022.4.8 以上、さくらまつりの行灯からこの岩手山まで、全て高松の池の敷地内で撮影。

ウム。なかなか良かった。これで生き物タップリの夏の楽しみ方がまた少し変わりそうだ。ただ、かなり重いレンズなので、自転車による移動の機会は減りそうだ。

ところで昔、カメラ・レンズをものすごーく丁寧に丁寧に扱うカメラ好きの知人がいた。そして私のカメラ、レンズの扱いを見て「カメラが可哀想」と言った(笑)。そう言えば、新しいタイヤに履き替えたハーレー乗りが「もったいないから最近あまり乗らないようにしている」とふざけて言っていたことがあった。ダイソンの高級掃除機を買い、「汚れるのが嫌だからなるべく古い掃除機か箒で掃除している」と半ば本気に言っていた人もいた。
というように書き連ねておいて、ご想像の通り私が言いたいのは「私にとってはカメラは手段であり、目的ではない」ということだ。例えばブライダルカメラマンみたいに商売道具の機材のグレード、モデルの新しさ、種類の豊富さ、扱いの丁寧さ、所作の美しさなどを含めてトータルで他人から撮るところを見られるような仕事であればまた話は別だ。だが、フィールドで自分の感動や満足を切り取るために写真を撮る人にとっては、カメラ機材は目的達成のためのただの道具だ。愛情を持って接しこそすれ、ガシガシ使うべきで、うやうやしく愛でたり、恐れ多くも畏くもと崇め奉ったりするものではない。ついでに言えば取り換え可能なものはますます手段化して良い。経年劣化により機能が損なわれたら、修理するか買い換えれば良い。
と私は思うのだが、でもまあ他の人はそれぞれその人が思うように思って良い。あるカメラ好きにとってそのカメラが取り換え不可能な唯一無二マコトの存在なら、丁寧に丁寧に扱えば良い。命みたいに。バランスを取るなら、マニアの常套手段、「3個買い、1つは普段使い用、1つは鑑賞用、1つは保存用」を発動すれば良い。む、となると命も3つ持てれば良い、ということになる。であれば仮想的に、場面ごとに命の価値・尊厳を3つに使い分けてみるのも面白いかも知れない。

最後に。私にとって写真を撮る目的とは何だろうか、と考えた時にすぐ思い至ることは、「今は亡き息子が、写真の中で笑っている。その写真を眺めている時、私の心の中で息子はそのまま生きている。」ということだ。視線の先に自分の子どもが実際にいて、その状態で目を閉じた時と、自分の子どもが側にいなくても、その子どものことをありありと想像しながら目を閉じている時とでは、脳は全く同じ働き方をするという。つまり、相手のことを強く心に思い描けば、相手が地球上に物理的に存在するかしないかは、関係なくなる。ということは、この瞬間に居合わせた仲間たちをありありと思い出せるように、なるべく写真を撮り続けなさい、ということだ。それと、困った時は目を閉じなさい、ということだ。

さて今年から娘は幼稚園に通う。新しいレンズで、幼稚園児になった娘のどんな表情が撮れるのだろう。写真が増え続けていくことが、楽しみで仕方ありませんよお父さんは。

 

(2022.4.11)

 

おまけ写真(入園式)

一言で言うと、写真は感謝と祈りなのかもしれない。私とつながってくれて、どうもありがとう。パシャ。いつかこの写真を見返したときに、あなたが変わらず元気でありますように。パシャ。的な。 2022.4.吉日
※セキュリティ上、この写真だけクリックしても拡大しません。

 



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