先日我が陣営に加わった新戦力についての話。
毎月潤沢とは言えない額の小遣いの中からコツコツと貯金し続けて遂に目標額に到達、カメラ本体とレンズのどちらを新調しようか悩んだ結果、最終的に望遠レンズの方を選びました。α7Ⅲはまたしばらく先。ということで新メンバーはレンズでした。
ちなみに小遣いの額を決めているのは私であり、妻には一切責任がありません。
さて、今持っている望遠レンズは70-300mmだから、今回の150-600mmは約2倍大きく写せることになるぞ。これは楽しみだ。ということで早速室内で無駄に試してみる。
これなら今まで諦めていた遠くの野鳥(とまっているやつ)も十分狙えそうだ。飛んでいるやつは、今持っているカメラの旧式オートフォーカスではちょっと厳しい。マニュアルフォーカスの練習に励みつつ(と言っても動く被写体に対して高倍率望遠レンズを手持ちでマニュアルフォーカスで、なんてのはかなり非現実的だが)、カメラ本体購入のためにまたお金を貯めるとしよう。
お試しは終了。よーし、では早速明日実際に外で使ってみよう。
カメラはα7Ⅱ(2014年12月発売)ではなく、若干新しい世代のα6500(2016年12月発売)にした。イメージセンサーがAPS-Cなので1.5倍の225-900mm相当となります。
ウム。なかなか良かった。これで生き物タップリの夏の楽しみ方がまた少し変わりそうだ。ただ、かなり重いレンズなので、自転車による移動の機会は減りそうだ。
ところで昔、カメラ・レンズをものすごーく丁寧に丁寧に扱うカメラ好きの知人がいた。そして私のカメラ、レンズの扱いを見て「カメラが可哀想」と言った(笑)。そう言えば、新しいタイヤに履き替えたハーレー乗りが「もったいないから最近あまり乗らないようにしている」とふざけて言っていたことがあった。ダイソンの高級掃除機を買い、「汚れるのが嫌だからなるべく古い掃除機か箒で掃除している」と半ば本気に言っていた人もいた。
というように書き連ねておいて、ご想像の通り私が言いたいのは「私にとってはカメラは手段であり、目的ではない」ということだ。例えばブライダルカメラマンみたいに商売道具の機材のグレード、モデルの新しさ、種類の豊富さ、扱いの丁寧さ、所作の美しさなどを含めてトータルで他人から撮るところを見られるような仕事であればまた話は別だ。だが、フィールドで自分の感動や満足を切り取るために写真を撮る人にとっては、カメラ機材は目的達成のためのただの道具だ。愛情を持って接しこそすれ、ガシガシ使うべきで、うやうやしく愛でたり、恐れ多くも畏くもと崇め奉ったりするものではない。ついでに言えば取り換え可能なものはますます手段化して良い。経年劣化により機能が損なわれたら、修理するか買い換えれば良い。
と私は思うのだが、でもまあ他の人はそれぞれその人が思うように思って良い。あるカメラ好きにとってそのカメラが取り換え不可能な唯一無二マコトの存在なら、丁寧に丁寧に扱えば良い。命みたいに。バランスを取るなら、マニアの常套手段、「3個買い、1つは普段使い用、1つは鑑賞用、1つは保存用」を発動すれば良い。む、となると命も3つ持てれば良い、ということになる。であれば仮想的に、場面ごとに命の価値・尊厳を3つに使い分けてみるのも面白いかも知れない。
最後に。私にとって写真を撮る目的とは何だろうか、と考えた時にすぐ思い至ることは、「今は亡き息子が、写真の中で笑っている。その写真を眺めている時、私の心の中で息子はそのまま生きている。」ということだ。視線の先に自分の子どもが実際にいて、その状態で目を閉じた時と、自分の子どもが側にいなくても、その子どものことをありありと想像しながら目を閉じている時とでは、脳は全く同じ働き方をするという。つまり、相手のことを強く心に思い描けば、相手が地球上に物理的に存在するかしないかは、関係なくなる。ということは、この瞬間に居合わせた仲間たちをありありと思い出せるように、なるべく写真を撮り続けなさい、ということだ。それと、困った時は目を閉じなさい、ということだ。
さて今年から娘は幼稚園に通う。新しいレンズで、幼稚園児になった娘のどんな表情が撮れるのだろう。写真が増え続けていくことが、楽しみで仕方ありませんよお父さんは。
(2022.4.11)
おまけ写真(入園式)