2月5の夜、滝村隆規くんの行方不明事件についてのニュースをテレビで視聴した。いなくなってからもう丸14年も経つのか。家族は辛いだろうな。
行方不明事件の概要
2007年2月5日(月)午前11時40分ころ、岩手県立みたけ養護学校(現:みたけ支援学校)小学部1年の滝村隆規くんが岩手県盛岡市前九年一丁目の館坂橋南方200m付近の北上川右岸河川敷(川下に向かって右側を右岸という)で行方不明になった。その日は学校は休みで、デイサービスで利用していたNPO法人六等星の男性職員1名(当時21歳)に引率されて他の児童2人と一緒に河川敷で雪遊びをしていたが、職員が他の児童に気を取られていた数分間の間に姿が見えなくなった。1時間ほど男性職員らが付近を捜したが見つからず警察に通報、捜索開始。翌6日は警察が約120人態勢で現場付近を中心に検問や聞き込みなどを行い、ボート2艇+県警ヘリ1機で北上川流域を捜索したが発見できず。行方不明後に盛岡駅前マックスバリュの近くで見た、青山町で見たとの目撃情報もあったが、結局発見に至っていない(現在も)。
2010年1月には隆規くんの両親がNPO法人六等星と男性スタッフに対し、監督責任を怠った、また最愛の息子が行方不明になり精神的苦痛を受けたとして慰謝料3200万円を求めて訴訟を起こした。その後2010年7月3日に盛岡地裁(貝原信之裁判長)にて法人が300万円、男性スタッフが180万円、計480万円を隆規くんの両親に支払い、六等星は今後も捜索活動を継続する、という内容で和解となった。
現在の現場付近の写真




滝村隆規くんのお母さんの手記
お母さんが手記を公表したということでネットに上がっていたので、以下に載せる。
この文章を読んでくださるすべての皆様へ
「現在の心境について」
2007年2月5日、私の息子 隆規が、北上川河川敷の舘坂橋付近で行方不明となって、今年ではや、丸14年を迎えようとしております。
息子が家族に囲まれてすごした7年半余りを想起し、あれからはるかに長い歳月が流れたのだと考えるだけで、焦燥感と寂寥感に苛まれ、なんともやるせない気分に陥ってしまいます。
かつて私が経験した肉親の永別とは異なり、この問題はいくら時間を経ても、いえ、年を重ねれば重ねるほど、悲しみと苦しみが降り積もってゆくような、そんな心地さえするのです。
お腹を痛めて産んだ我が子が、消息を絶つという事態に際して、あきらめることや忘れることなどできようはずもなく、ただただ、隆規の生還を待ち続ける以外、何もしてやれないのが無念でなりません。
しかしながら、ふだん、私たち家族は、そういった心情を吐露するのを、極力避けて参りました。
円滑な市民生活をいとなむには、心の健康を保たねばならず、みずからの胸裏を韜晦させる必要性を痛感しているからです。
正直に申しますと、私は、日頃、家庭内であれ、隆規の名前を口にのぼせることにすら、強いためらいを覚えます。
たとえ、あの子に関する楽しいエピソードを話すにせよ、最終的には目をそむけられない疑問に突き当たってしまうと、わかりすぎるぐらいわかっていますので。
――今、隆規は、どこにいる? 隆規は、いったいどうなった?――
おそらく、家族も同様の感情をいだいているのではないでしょうか。
隆規の不在によって、私たちは思い出を語り合うのに、話題をより分けないといけないような状態に
なってしまった気がします。
大切な家族を、これ以上、傷つけないために。
日々の暮らしを送る上では、隆規の問題を、あえて心の奥底にひそませているのですが、2月5日が近づくたび、鮮明に思い起こされることがあります。
それは、2007年の2月4日。
そう、隆規が失踪する前日の話です。
真冬の時期には珍しく、妙に生暖かい雨の日曜日でした。
外出から帰って、おやつにアメリカンドッグを作ってあげると、隆規は大喜びでぺろりとたいらげ、おかわりをせがみました。
お皿を差し出して、はち切れんばかりの笑顔で。
「おかわり!」
元気に叫ぶ息子の頬が、ダイニングキッチンの照明に映え、輝いて見えた光景がくっきりとよみがえり、まぶたに焼き付いて離れません。
そして、翌日のことなどみじんも予感もさせない無邪気な声が、とめどなく私の鼓膜を打つのです。
現在の隆規は、21歳。6月の誕生日がくれば、22歳になります。
成長した彼がどんな姿なのか、私にはうまく想像できませんが、きっと無事に帰ってきてくれると、固く信じています。
拙文をご覧いただいた皆様方に、ひとつお願いがございます。
今では青年になっているであろう、滝村 隆規という人間が、行方不明となり、ここに至るまで、家族のもとへ戻っていないという事実を、記憶の片隅にとどめておいてくださいませんでしょうか。
この件を風化させないことが、解決への糸口につながるのではないかと考えているからです。
例年であれば、デイサービスを委託したNPO法人 六等星さんに、情報提供を呼び掛ける広報活動をお願いし、数年前からは、私もお手伝いしていたのですが、今年は、新型コロナウイルス拡大の影響を受けて、盛岡駅前でのチラシ配りは差し控え、このような形で、心境を綴らせていただくことにしました。
末文ではありますが、コロナ禍の中、さまざまな形で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
一刻も早く、おだやかな日常が戻るようお祈りしております。
2021年2月5日
滝村 規枝代
手記を読んだ感想
私も息子が救急搬送された病院で救命措置を受けている時、何とか助かってくれ、頼むから戻ってきてくれ、頼む頼むと必死に祈った。その時の気持ちに似たものを十数年持ち続けているのか、と思うと全くいたたまれない。子どもが亡くなるというのは本当に辛いことだが、子どもの生死不明の状態がずっと続くのも、全くもって辛いことであるに違いない。
というような気持ちをニュースが始まった時に抱いたが、その後ナレーションを聞き、また後からネットでお母さんの手記の全文を読み、初めとは少々違う印象を抱いた。文体がやけにドラマチックだ。私だったらなるべく現状が多くの方に伝わり少しでも事態が進展するように、必要以上に難しい単語や脚色の効いたおしゃれな言い回しなどは使わずに淡々と文章を書くと思う。…のだが、まあ隆規くんのお母さんと私は別の人間だし、辛い状況を受けて人がどのように心情を育てるかはその人次第だから、他人がとやかく言うものではないか。というか「手記」というのはこういうものなのかもしれない。書いたことがないので良く分からない。
あとはご両親も辛いと思うが6、7歳上のお姉さんがいたはずで、その方も大変辛い思いをしていることだろう。現状このサイトがもつ影響力は極微小でどれだけの人数の目に触れるか分からないけれど、警察が作成した協力依頼のポスターを下に載せておく。
ご家族の辛さは子を失った私にも想像できる。隆規くんのご家族の心が、この先少しでも癒されていくことを強く願う。
(2021.2.7)

