アブラゼミの亡き骸をGET、からの…
オリンピックが始まり、職場でも警戒体制がとられるようになった。私も警備で管轄エリア内をまわることになり、とある山深い警備先でセミの死骸を3体入手することができたので、せっかくだからまた標本にして残すことにした。
3匹目は残念ながら劣化が激しく、私のテクニック&やる気では、標本化は不可能だった。
間近で羽化も見てみたい
亡き骸を触っているうちに、セミの幼虫の羽化を応援したい気持ちがフツフツと湧いてきた。オリンピック期間だからか、それともさっき沸々とセミを茹でたからだろうか。
何事か思えばそれなりのチャンスが巡ってくるものだ。翌日のサイクリング中に、アブラゼミの幼虫が羽化する場所を探してウロウロしているところに出くわした。ちょっとかわいそうだけど、羽化の様子だけ窺って後は解き放つことにして、家にお持ち帰りだ。
終わりに
子どもの頃は行動範囲が限られていたので、チャンスも限られていた。今にして思えば非常に狭いエリアの中で必死にセミを探し、そしてなかなか捕まえられなかった(その分稀に手に入れた時には死ぬほど嬉しかったけど)。大人になった今は、遠くまで行けるし色んなスポットも知っていて、簡単にセミを見つけられる。しかし残念、もはや情熱は薄れ、ありがたみも薄れ、昔のような激しい興奮や喜びは感じられなくなってしまった。うーむ、幼少期に今の環境にいられたらなぁ。どうにかして幼少期の私に会いに行き、助っ人になれないかな。なんて、もちろん今の私が子ども時代の自分に会えるはずは無い。でもそのかわりに会えるのが、自分の分身とも言える、今まさに絶賛子ども時代中の、娘だ。
子ども時代の喜びは、今この時嬉しい、だけで終わらない。大人になる過程で、また大人になってから、必ず苦難や挫折を味わうことになる。その苦しい時に自分を慰め励ましてくれるのが、子ども時代の原体験、飛び跳ねて喜んだ楽しい思い出たちだ。
娘が将来前向きに生きられるかどうかは、今を満足感タップリに過ごせるかどうかにかかっている。
つまり、親の責任は限りなく大きいということだ。
(2021.7.26)