11月15日に、娘の七五三で盛岡八幡宮に行ってきた。
七五三は、地元の守り神が住む神社に親子で参拝して、子どもが無事成長したことに感謝し、今後のさらなる成長をお祈りする行事だ。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳で行うという。数えでも実年齢でも良いそうだが、娘が数えで3歳だった去年は息子のことで色々あり、結果今年行くことになった。
改めて考えてみるに、娘が私たち夫婦のところに生まれてきてくれたことも、3歳まで元気に育ってくれたことも、今こうして毎日楽しく一緒の時間を過ごせていることも、大袈裟でなく奇跡だと思う。神様というものが存在するかは分からないが、この奇跡的な偶然のセットには感謝感謝である。
さて、ここで話が変わるが、判断内容の違いや行動のタイミングによって、その後の結果は変わる。例えば、
●あの日あの場所に行かなければ、あの事故に遭うことはなかった。あの日あの場所に行ったとしても、出かけるのが5分遅ければ事故は起きなかった。
●あの会社ではなく別の会社を選んでいたら、妻と知り合うことはなく、娘と息子が生まれることもなかった。
●私の曽々…祖父が曽々…祖母と結婚していなければ、私は生まれていなかった。
など。
その時その時の誰かの判断や行動で結果が変わっていく未来は、「どれかだけ起こり、それ以外の可能性は全て起こらなかった」と考えることもできるし、「その全ての可能性は全部が全部平行して起こっていて、ただし『私』の意識はそのうちのどれか一つのストーリーしか認識できない」と考えることもできる。
後者で考えると、この世のどこかに「息子が死なずに済み、今も親子4人で仲良く楽しく暮らしている世界」があったりするのかもしれない、と思う。
別の世界だとしても、私が認識できないとしても、どこかで息子が生きているとしたらそれは救いだ。その世界に息子と楽しい時間を共有している私や妻や娘がいるのなら、彼ら彼女らに私が叶えられなかった夢を託したい。
む?
そうなると妻と娘と幸せに暮らしている私のこの世界は、妻と娘を亡くした世界に住む私が永遠に失ってしまった、何とかしてたどり着きたい夢の国なのかもしれないぞ。

一瞬一瞬の皆の判断ごとに世界が無数に枝分かれして、それぞれに違う私が住んでいるとしたら、判断の差の大きい小さいの組み合わせ次第で、今の私から見て「ほとんど同じ私」から「全く別人のような私」まで多種多様な私がいることになる。今の私は、だから私の無限の可能性の中の限定された一形態だ。じゃあひょっとして、さまざまな要因がうまい具合に行き違っていたら、「私」という存在は「あなた」という存在だったかもしれないなぁ。
いや、言葉ではうまく表現できないが「私はあなただったかもしれない」とみんなが思えば、実際私はあなたになるような気もする。
…とりあえず、今回の一言は「今、このありがたさを噛みしめるとしよう」だ。
七五三の思い出(写真)










昇職試験は無事受かり、一等兵から軍曹を飛ばして少尉になりました。残念ながら昇職試験に落ちた世界に住む私のうちの誰かはこの私のことを想像し、「ヨシ、お前はお前の世界で頑張れ」と応援していることだろう。私のバリエーションが無限なら、「ちきしょう、呪い殺してやる」と藁人形に五寸釘を打ち込む私もいるかもな(笑)。
無数の私がいるのであれば、それぞれの世界で自分がありがたいと思うことに対してありがたさを噛みしめれば良い。
(2021.11.30)