ジャンプスーツ

立春が過ぎました

立春は冬至と春分の日のちょうど中間で、毎年大体2月4日、たまに5日。去年は124年ぶりに2月3日だったそうだが、今年2022年の立春はまた2月4日に戻った。今後は、またずーっと2月3日ではなくなるわけでなく、去年2021年から2057年までは3年おきに2月3日になり、2057年以降はもっとごちゃごちゃになるらしい。
…と書いていて、あれ?前に似たようなことを調べた気がするなあ、と思って過去の投稿を見てみたら、「節分とか、恵方巻きとか」で触れていた。

昔の自分が書いた妙な文章を読むのもなかなか面白いものがあるが、昔の写真が一つのお題で時系列に並んでいるのを眺めるのも、実に面白い。娘も世の中も、もちろん自分も、刻一刻と変化し続けているのだなぁと改めて認識し、ボンヤリしている暇は本来ないのですぞ、という気持ちが引き出されてくる。と言いつつ結局ボンヤリ生きてしまう自分が恐ろしい。

そんなわけで、今回は娘が今まで着てきた屋外用ジャンプスーツに着目して、時の流れを味わってみることにする。そこから何か思いつくことがあればそれも。

歴代ジャンプスーツあれこれ

記念すべき初代スーツ。もともとは上着だけのジャンバーやコートを着ていたが、上下一体のスーツは脱ぎ着が楽で、雪に強く、隙間が少なくて温かい。それを知った後はスーツを良く着るようになった。この初代は購入時点で既にピッタリサイズで、ほとんど着なかった。1歳。2020.1.8 
足元のビニール袋を見て、ナントカ ニキなんて人が昔いたったなぁ…などと思う。
二代目。ラピュタでシータがドーラからもらって履いたブカブカのズボンを彷彿とさせるシルエットが素敵。これを着ている娘は実に可愛かった。まぁ、これを着ていてもいなくても、いついかなる時も可愛いがね。2020.1.12
三代目スーツ。妻が渋民イオンのDONDONDOWNで見つけてくれた。2021.1.1 
このスーツは2、3、4歳と3シーズン着たのでかなり思い出深い。これを着て色々なところに行った。これからも、主に高松の池に、そしてそこ以外の色々な場所に、一緒に行こう。
多少ズレるが、去年の今頃は娘は雪解けの水たまりに体を浸けるのにハマってしまっていた。道行く人に「風邪ひくよ」「何させてんの」「子どもが可哀想」等言われることもあれば、「おー、スゴイ」「良い顔してる」「子どもに付き合って偉い」等と言われることもあった。見ず知らずの他人の意見は(この件に関しては)正直どうでもいいけれど、個人的には、行水はやめて欲しかった。しかし結局娘の笑顔を優先した。果たして良かったのか、将来にどう影響するのかは謎。一つ言えることとして、毎回車に戻った後すぐにしっかり着替えさせてくれ、風邪を引かせることのなかった妻に対する私の感謝と尊敬の念は、物凄く深まった。2021.2.11
去年はズボンのかかとを引きずっていたのに、今年はすっかりズボンが短くなり、全体的に窮屈になった。子どもの成長は驚くほど早い。
そういえば、3歳の娘が1年半前の出来事を思い出して「ずいぶん昔に」と表現したことがあった。3歳児にとっての1年半前は、比率的には40歳にとっての20年前。そう考えると確かに「ずいぶん昔」な気もする。小さい子どもの1年は私の1年に比べて何倍も何十倍も濃い時間なのだな。精神的、肉体的に急激に成長するとしても、なるほど、とうなずける。2022.1.26
四代目。最近おろした。ズボンの丈を紐で伸び縮みさせられるので、しばらくの間着られそう。スーツを着るのはこれが最後になるかもね。これを着た娘と、これからどんなことを経験できるのだろう。楽しいことが沢山ありますように。2022.1.30

 

 

写真を見て思うこと

写真を見ていると、その時その時の思い出がバッチリ蘇ってくる。その当時の自分と今の自分は全く同じ人間ではないので感情まですっかり再現されることにはならないけれど、「あぁ、あの時ああいう風に思ったっけなぁ…。」としみじみと共感することにはなり、面白い。

面白い、というのも面白い。自分自身のことなのに共感したり面白がったりできるのは、その当時の当事者だった自分とは違い、今の自分は過去の自分を別人格として客観的に見ることができるからだ。
とすると、今の自分のことを今、離れた視点から客観的に見ることができれば、自分とその周りに起こる出来事を、よりゆったりと、面白がって味わえるのかもしれない。

自分を客観視するために

これに関しては夢が大いなるヒントになるように思う。

夢から覚めた後の夢の認識として、ざっと見ても6つ、パターンを挙げることができる。
①夢を見たかどうか、全く覚えていない
②何か夢を見たことは覚えているが、夢の中身は覚えていない
③夢だと気づかないまま、ただ夢の中の自分を味わっていた(目覚めて初めて「何だ夢だったのかい」と気づくパターン)
④夢だと気づいてはいるが、自分を操ることのできない夢だった(もどかしいけれど、何もできないパターン)
⑤夢だと気づいていて、自分を操ろうとしたら多少できる夢だった(ちょっとだけ、夢が自分のものになったパターン)
⑥夢だと気づいていて、思い通りに自分と世界を操ることができる夢だった(明晰夢的な、完全に夢を自分のものにしたパターン)
の6つだ。

今知覚している現実世界を夢の世界に見立てて、上記の③を④へ、④を⑤へ、⑥へと持っていくような、一段階上の意識を働かせることができたらなぁ。そうすれば、夢の中での出来事について目覚めた後で深刻に悩んだりたり執着したりしないのと同じように、この世界での出来事に対しても深刻に悩んだり執着したりせず、良い意味で適当に、気楽に生きられるのではないだろうか。

ということで、睡眠状態に対しての覚醒状態に相当する、覚醒状態に対しての「超覚醒状態」的な精神状態をどうにかして模索し、発見し、実現させることを目指しましょう、という話になるのだが…。それがどこにあるのか、どうすればたどり着けるのか、皆目見当がつかない。
手始めに明晰夢の見方の練習からでもしてみたら良いのかな。それともお寺の坐禅会に行く、とか?それとも上野に行ってひとつウエノ男になるとか(笑)。

これに対する答えがいつかこのブログに書けると良い。

未来の自分に期待。

(2021.2.6)

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