挨拶について

積極的な、うちの娘

うちにやって来る皆さま、例えば郵便局のおじさん、生協のおばさん、クリーニングのおじさん、デイサービスのおばさん、等々の皆さんを相手に、娘が日々熱烈歓迎攻撃をしている、という話をかねてより妻から聞いて知っていたが、先日ついに、私のことを訪問者だと勘違いした娘に玄関先で熱烈に歓待され、噂の真相を直接味わうことができた。

「こんにちは~!!」という元気な挨拶、とびきりの笑顔、喜びを全身で表すジャンプ、「○○ちゃんで~す!!」という自己紹介と労いの言葉がけ。・・・なるほどこれか。想像以上に実に素晴らしい。

なぜ娘がこうも積極的に人に対して全く物おじしないで向かっていくのか、その社交性や人への信頼感は一体どこからやってきたのか。非常に摩訶不思議ではあるけれども、父としては大変嬉しい。

高松の池にて

さて、娘の積極性は家に来た人に対してだけでなく、出かけた先で出会った様々な人に対しても存分に発揮される。そして相手の反応は十人十色だ。話しかけられて大喜びする人もいるし、感心する人もいるし、警戒する人もいるし、無視する人もいる。
それで、先日高松の池でとあるオジサマから挨拶を返してもらえなかった娘が「なんで挨拶してくれないのー!?」とオジサマ+私に聞いてきたので、それに対する私なりの答えをこのページに書こうと思う。

ちなみにその時は私も娘と一緒に数回挨拶して、同じく数回挨拶を返してもらえなかった。そして私が「挨拶したいと思う人も、挨拶したいと思わない人も、どっちもいるんだ」と言い、全く何てことはないような態度でいたので、娘もへぇ、そんなものなのかなぁ、と思ったようだ。

もう一つちなみに、もしあそこで私が「意地悪なおじちゃんだったね。ああいう大人になっちゃダメだよ。」なんて言ったら、次挨拶を返さない人に会ったら「意地悪しないでよ!もう!!そういう大人になっちゃダメなんだよ!!」と怒るだろうな。親が下手な呪いをかけてしまうことの無いよう、気をつけたい。

挨拶を返されなかった時、どう感じるだろうか

こちらが楽しい気持ちで人に挨拶したとき、楽しい気持ちで挨拶を返してもらえたら、とても嬉しい。
反対に、相手から挨拶が返ってこなかった時は、まぁ嬉しくはない。

その嬉しくないことについて、特に気にしないか、ちょっと悲しいか、激しくショックを受けるか、イライラするか、激怒するかは、自分の選択の自由である。
「あれ、聞こえなかったのかな?」と再度挨拶をしてみても良いし、「せっかく挨拶したのに無視された…」と落ち込んでも良いし、「なんて礼儀知らずなんだ!」と怒っても良いし、「まぁこういうこともあるよね」と流しても良い。

個人的には「今この時においては、挨拶する人ではなかったのね、了解」と気にしないのが一番だと思う。絶対に絶っっ対に挨拶しないぞ、なんていう強い信念の持ち主なわけではない、条件が整えば普通に挨拶するでしょ、くらいに気楽に構えつつ。

自分ならこう思う

私も、昔は挨拶が返ってこないと憤慨したものだ。
「挨拶されたらきちんと返すのが常識だろ!」「俺に敬意を払わないなんて、お前は何様だ」「知り合いなら仲良くしなければならないのに、けしからん!」と、自分の価値基準で相手を評価し、自分の期待と違う現実に勝手にイライラしていた。
が、今は別に気にならない。
「自分がしたいこと、すべきだと思うことを自分の責任ですれば、それでOKだ。それに対する相手の反応は相手が相手の責任ですることで、自分の責任の範疇外のことだ。それを自分の価値基準に当てはめてジャッジすれば、相手が勝手に選んだ言動に対して自分がわざわざ責任を負うことになる(ジャッジすれば相手の言動に対して怒りが生まれ、生まれた怒りを何とかするために普通は『私の価値基準に適合するような言動を相手にさせなきゃ!』と考えるから)。これだと悪い意味で自他の境界があやふやになるが、しかし自分と相手ははっきりと別人であり、そんな無駄骨を折る必要は全く無い。挨拶を返してくれたらその時は喜べば良いし、挨拶を返してくれなかったらそれはそれで気にせずそのままほっとけば良いのだ。」
と考えるようになり、いちいちあれこれ思い悩むのが馬鹿らしくなってしまった。

相手がどこかの誰かではなく、娘や妻のような自分にとっての最重要人物であれば、また少し話が違うけど。その時は自分の価値基準と相手の価値基準のすり合わせが始まり、お互いがちょっとずつ生まれ変わる。

「分かる」ことは「分ける」こと

ところで前回前々回の投稿で「自分と他人はある意味では境界がなくなる」という類のことを肯定的に書いたけど、この文章を書いている今は、「自分と他人は基本的には厳然たる別個体である」という捉え方にフォーカスしたい。「自分と他人の堺目はある意味であやふやだ」と考えることで進む理解と、「自分と他人の境界はきっちり線引きされる」と考えることで進む理解は、別領域のものだ。物事は切り取り方を変えると全く反対のことが言えるようになったりするのだ。

「切り取り方の変更=視点の切り替え」は対象をより多角的に理解するために大事なことだが、全体が細切れになってしまい、くっつけ直したときにツギハギだらけの穴だらけで理解がみすぼらしくなる危険も大いにある。とは言え基本的には「分かる」ためには「分け」なければならず、また私が私の言葉を使って「分ける」以上、穴だらけになるのは仕方ない。だからこの投稿もこれはこれで仕方ない。誰かと意見を交換させないと、つまり誰かにコメントをもらわないと、劇的には直らない(笑)。

まとめ

皆に親愛の情を注ぐ娘は、間違いなく皆の心に幸せの種を蒔いている。側で見ていて、私も強い喜びを感じる。娘の無邪気さはなるべくこの世に残り続けて欲しい。
挨拶されて喜んだ人、感心した人については触れるまでもないことだが、警戒した人も、無視した人も、心の中で「あぁ、小さい子どもに無邪気に挨拶されたなぁ。でも自分は警戒したなぁ、挨拶しなかったなぁ。」と大なり小なり感じるところがあるはずだ。高松の池ですれ違ったオジサマの背中から、そういう後悔を(私は勝手に)感じ取った。そして娘がばら撒くように惜しみなく蒔いた種はその後オジサマの心の中でも芽を出し、今度はオジサマが別の誰かに対し何かしらの形で親愛の情を差し向けることになるだろう。善因楽果、実るのが遅いか早いかの違いだけだろう。

そんなわけで、挨拶しない人がいることについて、3歳の娘に短く何か言うならこうだ。「君はぜんぜん悪くない。」「君の挨拶で、みんなハッピーウレピー最ッ高〜!!」

(2022.1.8)

娘の気持ちの切り替えの早さにはいつも脱帽する。というか怒りはあっても恨みとか妬みとか後悔などがほとんど無いから、すぐまた楽しくなる。「気にしないようにする」どころか「全く気づいていない」ことも多い。全く、娘を見ていると、親は子の人生の師匠だけど、子もまた親の人生の師匠なのだなぁ、としみじみ思う。…フムフム、大らかで楽しくあるためには、自然と親しむのもすごく大事なのですね、なるほど今時期は雪遊びが吉なのですね、チビッ子師匠。2021.1.8 高松の池にて

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